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歴史から今の日本を考える

先日、伊豆下田と熱海へ行ってきました。

伊豆半島にある下田は今から約160年前、黒船を率いたペリーの来航をきっかけに、日本で最初の開港地となりました。
その開港に大きく関わった歴史上の人物が、日本の未来をどのように考え、行動を起こしていたのかを探ってきました。

江川英龍(ひでたつ)と吉田松陰のゆかりの地へ行き当時のお話を伺ってきました。
吉田松陰は有名ですが、江川英龍と聞いてわかる方は少ないのではないでしょうか。
しかし、江川英龍の教えを学び日本のために行動した志士と言えば、佐久間象山(弟子に勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰、加藤弘之)、橋本佐内、桂小五郎などが挙げられ、影響力の大きさを知ることができます。当ブログの後半に詳細を記載してありますのでご覧いただければと思います。

江川英龍、吉田松陰それぞれ共通して言えることがありました。
それは、世界情勢はどのように動いているのかを学び、世界各国は日本をどのように見ているのかを知り、これからの日本はどのように動いていけば良いのかということを考えていたということです。

この頃の世界情勢は、欧米が産業革命による工業生産と流通の活発化による国力強化のため、新たな植民地獲得へ乗り出していました。
植民地獲得の目的としては
・原材料の産出地の確保
・低賃金での労働力の確保
・貿易拠点の確保
・市場の確保
が挙げられます。

そして、その波は日本にも押し寄せてきます。
ペリーが浦賀に来航し、幕府に開国・通商を求めてきました。その際、幕府側が1年の猶予を求めて撤退しましたが、半年後に日米和親条約を締結しに再度来航します。
さらに、ロシアからもプチャーチンが来航し日露和親条約の締結を迫ってくるなど、日本開国は待ったなしの状態になります。

これらのことから、江川英龍は、これから日本を守るには、軍事力をつけなければいけないと考えたわけです。
江川塾を開き、農民に農兵訓練を教え、西洋の砲術の訓練をおこないました。幕府にも海防対策を提言し、1度目のペリー来航から半年後の日米和親条約を締結しに来るまでの間に、お台場(砲台)を整備させました。江川英龍は、ペリーが来航するずっと前から海防対策として台場を整備するべきと幕府に進言していたそうです。

さらに、兵糧としてパンを製造し、保存食としても携帯できるようにしました。これが日本で最初のパンの誕生となったそうです。
その他にも多くのことをおこなっておられますが、全ては日本を愛し、日本を憂いたからです。

吉田松陰も江川英龍と同様、広く世界情勢を学んでいました。
松陰は、日本を強い国にして欧米の植民地にならないためにも他国がどのような国なのかなどの情報を得る必要があると考えていました。
そのために、何とかして外国に行くべく下田港に滞在していたペリーの船を使うことを考え機会を伺っていました。

両者の行動から言えるのは、正しい正確な情報を自ら収集していたということです。

なぜ、正しい正確な情報が必要だったかというと、

正確な情報があってはじめて的確な対策を立てることができるからです。

これを今の世の中にあわせて考えるとどうでしょうか。

世界情勢はどのように動いていますか?

世界各国は日本をどのように見ているでしょうか?

これからの日本はどのように動いていけば良いでしょうか?

そのための正しい正確な情報はどこからとるべきなのか。

今の世の中は情報で溢れています。中には誰かの利益になるようなフェイクニュースも少なくありません。
その情報の中から、自分の考えを持って行動していかなければいけません。

まずは、インフォメーションをインテリジェンスへ変えていくことが大事です。
これは政治だけではなく、経済にも言えることです。
日本の動きだけを見ていても先を考えることはできません。世界の動きから日本はどうあるべきなのか、自分はこれから先何をするべきなのかを考えていかなければいけません。

最近いろんな方とお会いし、お話をさせていただいています。そこで改めて思った言葉

「百聞は一見に如かず」

リアルな情報に触れ、日本の未来を考えていきましょう。

以下、訪問先の情報です。

江川邸
徳川家康に仕え、徳川幕府が成立し伊豆が幕府の直轄地になるに及んで、代官としてこの地を統治することとなった。以後明治維新に至るまで、江戸時代のほぼ全期間を通じて代々徳川幕府の代官を世襲として勤めた。当主は通称として太郎左衛門を名乗った。特に幕末の江川英龍(ひでたつ)は文化人、開明思想家、革新的技術者として有名である。
36代英龍(1801~1855)が代官として活躍した幕末の時代は、欧米の列強がアジアの各地を次々と植民地化した時代であった。彼は蘭学を修め、外国の社会事情や国際情勢を知り、日本の置かれた立場を深く憂慮した。蘭学を学んだのは正確な情報があってはじめて的確な対策を立てることができるからです。
幕府に対する沿岸防備の建議、農兵制度(近代的な兵制)の建議と農兵訓練、西洋の砲術の研究と訓練、測量技術の研究と実施、東京湾のお台場(沿岸防備のための砲台)や韮山の反射炉(銃砲鋳造のための溶鉱炉)築造に関する提案と実行、パン(兵糧として)の最初の製造、戸田村での最初の西洋式造船の監督、そして江川塾における教育など、極めて多くのことをおこなっているが、これらはすべてこの憂国の思いから出たものであった。
また特に幕末の江川英龍の時代の塾の間では、明治時代に活躍した多くの俊英が教育を受けた。
江川塾では、佐久間象山、大鳥圭介、橋本佐内、桂小五郎、伊東祐亨などが門下として西洋砲術を学ぶ。


韮山反射炉
江川英龍は、西洋砲術の導入、鉄製大砲の生産、西洋式築城を用いた台場の設置、海軍の創設、西洋式の訓練を施した農兵制度の導入など、一連の海防政策を幕府に進言している。このうち、鉄製大砲を鋳造するために必要とされたのが反射炉であった。
嘉永6年(1853)ペリー艦隊の来航を受け、幕府もついに海防体制の抜本的な強化に乗り出さざるを得なくなった。そこで、以前から様々な進言をしてきた江川英龍を責任者として、反射炉と品川台場の築造が決定されたのである。


玉泉寺(ぎょくせんじ)
嘉永7年3月にペリー黒船来航。玉泉寺は条約により黒船乗組員の休息所に指定される。
安政元年12月より、ロシアの黒船ディアナ号乗組員の宿舎、日露交渉の場として使用される。
安政2年、ドイツ商人リュードルフの半年間の滞在。
安政3年8月~安政6年5月までタウンセンド・ハリスにより日本最初のアメリカ総領事館として使用。


了仙寺(りょうせんじ)
幕末にペリーと日本全権との間で日米下田条約が締結された場所。


吉田松陰寓寄処(ぐうきしょ)村山邸
江戸時代、日本は鎖国をして外国とは関わらない状態だったわけですが、欧米列強の時代になり日本に開国を迫るようになってきました。
吉田松陰は、日本を強い国にして欧米の植民地にならないためにも他国がどのような国なのかなどの情報を得る必要があると考えました。そのために、何とかして外国に行くべく下田港に滞在していたペリーの船を使うことを考えました。
密航しようと下田に行きましたが、吉田松陰は疥癬(かいせん)という皮膚病を持っていました。その病気の湯治のために訪れた蓮台寺温泉で数日間身を寄せた場所が村山行馬郎邸です。松陰を匿った部屋や、松陰が使用した机や硯なども展示されています。


興亜観音
昭和15年2月、陸軍大将松井石根の発願により、支那事変での日中両軍の戦没者を「怨親平等」に等しく慰霊供養するために建立されました。観音様は大場鎮・南京地域の「戦場の土」を取り寄せて制作されました。慈しみのいまなざしをもって遥か士那大陸南京の地に向き合って合掌し、静かに祈りを続けておられます。

大東亜戦争後の東京裁判で「所謂」A級戦犯とされた七士は、昭和23年12月23日―明仁皇太子殿下(当時)のご誕生日に処刑され、遺骨は東京湾に捨てられたと言われます。
ところが、米兵が遺骨を処分する時に、残った骨壺1杯ほどの遺骨が米兵の手によりコンクリートの穴に捨てられるのを飛田火葬場長が見ていました。その遺骨灰を回収し、こちらに「七士の碑」が建立され埋葬されています。



最終日は龍馬プロジェクトの神谷会長と靖国神社に参拝してきました。